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北部九州、日田の地に”祈り”を巡る【大分・日田前編】

 

失われた歴史に連なる謎多き土地、日田

日本が建国されたのは、今から2679年前のこと。これは日本最古の書物と言われている古事記やその後に編纂された日本書紀(以下:記紀とする)に記された神話から読み解くこの国の始まりだ。

僕らの住むこの国には2000年の歴史を超えて、今なお古代の神々の気配が色濃く残っている。しかしその神々の存在を正確に伝えていくことは決して容易なことではない。後世に残される歴史というものは、往々にして時代の勝者が記し伝えるものだからだ。それは、神話ですら例外ではないと僕は考えている。

神々の誕生譚は、宇宙の中に原初の神々が生まれたことから始まり、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の後、天照大神(アマテラスオオカミ)、月読尊(ツクヨミノミコト)、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)が生まれ落ちたあたりから、その後の天皇家につながっていく。

具体的には、天上世界である高天原から、地上である葦原中津国を見やった神々が、その土地の豊かさを求めて支配権を譲り受ける“国譲り神話”と、その後地上に降り立った“天孫降臨神話”、そしてさらにその後の神武天皇につながる系譜だ。

しかしながら、日本最古の書物と言われる記紀に記されたこの神話には、古代日本の名称として名高い“邪馬台国”やその土地を中心に当時の連合体の盟主とされてきた“卑弥呼”の名は一切記されていない。つまり、日本の歴史は神々の誕生から人間の暮らしが始まったことを伝えていながらも、記紀編纂よりも数百年前に記された中国の史書、魏志倭人伝に登場する“邪馬台国”や“卑弥呼”については黙して語らずなのだ。

“邪馬台国”や“卑弥呼”の名前を聞いたことがある方はきっと多いのではないだろうか。しかしその該当地はいったいどこなのか? その該当人物はいったい誰なのか? ご存知の通り、九州説、近畿説、四国説、北陸説と数え上げたらきりがない。

書物に記される歴史もあれば当然記されない歴史もある。おそらく、歴史資料として残るものは、その当時に起こった事柄のほんの一部でしかなく、記紀に記されていないから、そんな歴史はなかったという理屈はまるで通じないのだ。

そして諸説ある中でも“邪馬台国”の存在を北部九州に求める説は古来より伝わっており、実際にその名称の由来を“卑弥呼”とする土地が北部九州にはいくつもある。今回はそんな土地の一つ、北部九州のど真ん中、大分県日田市の歴史と祈りの物語をみなさんにご紹介したいと思う。

 

日田という地名に隠された卑弥呼との関係性

大分県日田市。

もし地図が手元にあれば、ぜひ九州をご覧いただきたい。上部が北部九州にあたるが、そのド真ん中にあるのが大分県の日田市だ。

その地名の由来を調べると第12代景行天皇の時代まで遡る。天皇が九州遠征時に現在の日田の地に立ち寄った際に現れた“久津姫”という神の名前が後世に伝えられ、なまって“日田”という地名になったと豊後國風土記に記されている。おそらく、第12代景行天皇の時代にはすでに日田に人が住み着き、その中に“久津姫”と名乗る存在があったのだろう


日田南部にそびえる御前岳の山頂には、景行天皇御遺跡と書かれた石碑があり、伝承を今に伝えている

そして、この“久津姫”こそ“卑弥呼”のことではないかという説がある。それは3世紀前後に造営されたと推測される古墳群から、同時代の中国で作られたらしい鏡が出土しているためだ。その鏡こそ“卑弥呼”が魏国より授かったとされる三角縁神獣鏡なのではないか? とこの説は推測している。

地名に“邪馬台国”や“卑弥呼”に繋がる伝承を持っている日田はそれだけで謎のベールに包まれ、個人的には大変魅力的な土地だ。また日田では製鉄遺跡も発掘されており、どうやらそれは宇佐の人々が持ち込んだものではないかとされている。古代、鉄をつくる技術があれば、武器や農耕機具をつくることが出来、それが武力と生産力となったはずだ。先史から古代にかけての日田は有力な指導者を持ち、武力と生産力を携えた土地であったことは、推測にかたくない。

 

日田の暮らしに残る信仰の足跡

卑弥呼の時代から歴史はくだり中世となると、現代の日田の暮らしにも残る信仰を見ることが出来る。

830年代、通称ヒタドンの名で知られる小豪族の大蔵氏が歴史に登場する。宇佐を本拠としていた大蔵鬼蔵大夫永弘が日田に居付いて、日田大蔵氏となったという説や、はたまた渡来の秦氏であるというものまであるので定かではないが、以後600年余り、大蔵氏は日田地方を支配した。


大蔵一族で相撲の名手と伝えられている大蔵永季の肖像(大原八幡宮所蔵)

この大蔵氏とも縁が深く、現代の日田に暮らす人々の精神的支柱となっている信仰の拠点は、なんといっても日田市田島に鎮座する大原八幡宮であろう。その信仰の始まりは今から1300年以上も前に宇佐の神がこの地にやってきたという故事に求めることができる。当初は今の場所とは異なり、付近の天ヶ瀬に鞍形尾の宮を建立し祭祀が始まった。その後、現在の鎮座地付近の杉原に神が降り、「岩松の峰の神」を名乗って「杉原が便宜よいのでここにきた」と告げたとして、社を建てて祀ったというのが大原八幡宮の前身と伝わっている。

宇佐からやってきた大蔵氏が日田をおさめていたのであれば、八幡信仰が宇佐から持ち込まれ、現地の信仰と合流しその後の日田の信仰の中心となった事は納得がいく。


日田市の信仰の中心、大原八幡宮

しかし一方、ヒタドン(=大蔵氏族)が支配する600年余りの中で、大原八幡信仰のかたわら、日田にはその他にも様々な信仰が持ち込まれていたようだ。そもそも八幡様こそ謎多き神である。ここではその謎に触れることは叶わないが、八幡神が日田で信仰されている理由は、宇佐からの人々や文化の流入や、ヒタドンこと大蔵氏との絡みから納得がいく。

そして、ここ日田の地には八幡信仰以外の祈りの地がゆうに数百を超えて現存している。加えて天孫降臨をしてきた天津神と、もともとこの地上をおさめていた国津神が混在しているから面白い。

また、時代によっては太宰府の管理下にあった政治事情より天神様で知られる菅原道真も多く祀られていたり、近世では天領とされ守られるほど重要な交通要所であったが故か、各所に道開き・道案内の神、猿田彦大神もその存在感を強く残している。ひとつの地域にこれほどまで猿田彦が祀られているのは、いかにこの地がヒトモノコトの交流、交差地点であったかという証拠であろう。また同時に、天領とされたこの地がそもそも持っていた土地力(もしかするとそれは今なお日田が擁する水資源の優位性とも考えられる)が様々な神々を引き寄せた結果ともいえるだろう。


日田では、街の辻々や神社の片隅、至る所に猿田彦大神が祀られている

 

日田の暮らしと祈りのかたち

ではそのような特異的な魅力を持つ日田の地にて、今なお残る信仰はどのようなものなのか? ここからは、現在も日田の地に残る信仰の象徴として「祭り」を追ってみたいと思う。

まず、代表的なものとしては毎年7月に京都で開催される日本最古の祭り“祇園祭”を手本とし、江戸時代に厄除神事としておこなわれるようになったという“日田祇園祭”だ。

江戸時代中期には本格的な山鉾が作られ街中を巡行していたという。祇園祭といえばその中心となるのは八坂神社であるが、日田においては市内豆田地区の豆田八坂神社、隈地区の隈八坂神社、及び竹田地区の竹田若八幡宮を軸に開催されている。この信仰は素戔嗚尊を中心に据えたものであり、ここにもまた日本の神々におけるスーパースターが日田の地で活躍していた証左がみてとれる。


日田祇園の様子。集団顔見せでは提灯を灯した山鉾が一堂に会し、幻想的な風景を作り出す

また日田に住まう人々の精神的支柱と言える大原八幡宮では、五穀豊穣を祈念すると共に、生き物に対する感謝の念から殺生の戒めとして魚や鳥を野や川に放つ儀式“放生会(ほうじょうえ)”が、今なお賑やかに催されている。

その他にも近年整備された“日田天領祭”なるものがある。江戸時代、幕府の直轄地である「天領」だった日田の栄華を再現しようと、時代装飾に身を包んだ総勢100名超による「西国筋郡代着任行列(さいごくすじぐんだいちゃくにんぎょうれつ)」を目玉に天領時代を思い偲んでいる。

例年11月に開催される「日田天領まつり」での西国筋郡代着任行列の様子

いずれも日田の地が歩んできた歴史と文化の中から生まれ、引き継がれてきたご神事や、歴史に裏付けされた祭りであり、この土地が有する無形的な財産だ。これこそが無意識にも強く守られてきた信仰の残影であり、立地的な優位性と、だからこそ様々な時代に翻弄されながらも、都度新たな信仰がそれまでのものを塗り替えることなく合流していった結果なのではないか。

ひとつの地域としては驚くほど多くの道開き道案内の神・猿田彦が辻々を見守り、疫病退散の祭りである祇園祭が人々の無病息災を守り、古代の栄華を思い偲ぶ天領祭や五穀豊穣と生き物への感謝・殺生への戒めとしての放生会が人々の精神的支柱となり、これらの祭りが総じて、日田という土地に込められた祈りそのものとなっている。加えて、周辺にはさらに時代を遡れるのではないかと思えるほどの自然崇拝の地が点在し、猿田彦の守る日田をさらに広範囲で守り続けている。

北部九州のど真ん中、日田。ここは類まれな立地に裏付けされた歴史的要所であるとともに、だからこそ目に見えない結界を幾重にも張り巡らし守られてきた土地であることが、今もこの地に受け継がれてきた”祈り”から見てとれるのである。


日田の地を巡っていると、実に多くの「祈りの場面」に遭遇する

次号、【大分・日田後編】では、その結界の代表格として、日田南部に位置する神々の山の存在に触れたい。昨今の登山ブームにおいては、隣接する福岡県からのアプローチが主となっている御前岳と釈迦岳をご存知の方も多いのではないかと思う。しかしその山々に神を見出し、祈ってきた痕跡が色濃く残るのは現大分県側の日田市であることは明確にお伝えしたい。

御前岳や釈迦岳は日田にとっての結界であり、福岡県や熊本県など、隣接地域との間で文化・暮らしの境界線となってきた。次号では、この特異な2つの山を主に、山と共に生きてきた日田市津江地区の暮らしと信仰、そして神々の山とのつながりをご紹介したいと思う。

 

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中村 真

中村 真

イマジン株式会社代表 / 尾道自由大学校長 / 自由大学神社学教授。神社や暮らしの中にある信仰を独自に研究する神社愛好家。広告代理店・音楽レーベルを経て2005年にインディペンデント・パブリッシャーとして2012年まで雑誌『ecocolo』や書籍『JINJABOOK』などを発行する出版社株式会社エスプレの代表を務める。同年、プランニング会社であるイマジン株式会社設立。同時に広島県尾道市の街興しに参画し、尾道自由大学を創立し校長を務める。その他、日本人冒険家のマネージメント団体『人力チャレンジ応援部』や、全国の農家と都市部の若者を繋げるインターネット上の農業大学『TheCAMPus』の立ち上げにも参加。全国各地の地域プロジェクトと連動し多拠点での暮らしを実行中。神社や日本人の心の在り方を模索する中で山と出会い、神や仏と出会うために山に登る『登拝』をライフワークとし、各地で『献笛』をおこなっている。